沈さんは、父が「華僑粛清事件」で殺害されたと考えている。日本軍は占領直後、マレー半島各地で「抗日分子」を選別し、裁判なしに多数を処刑していた。正確な犠牲者数は分からないが、日本側の報告で5千人、シンガポールでは4万~5万人とも言われる。
そもそも新京は平坦な地にあり、攻撃を受けた際に防御態勢をとるには不向きだ。そこで関東軍は昭和20年初めごろには、ソ連軍が侵攻してきた場合には、敵に消耗を強いながら朝鮮国境の山岳地帯でソ連軍を食い止める計画を立てていた。
アジア・太平洋戦争では、捕虜虐待や虐殺などの「通例の戦争犯罪」を問われ、BC級戦犯として多くの日本軍兵士が裁かれた。敗戦から80年のことし、あるBC級戦犯と、その遺族を追った。4月13日。時折小雨が降る中、東京・池上の照栄院に、元川崎市立… ...
太平洋戦争末期、宮崎県の槙峰鉱山では労働力不足を補うため、多くの中国人労働者が強制就労させられ、劣悪な生活・労働環境と過酷な作業により76人が犠牲となった。この悲惨な歴史を風化させず未来に伝えるため、日之影町では毎年慰霊祭が行われている。中国人労働者 ...
戦後80年にあわせて太平洋戦争中に町内会で回覧された文書などを通じて、当時の人々の暮らしについて知ってもらおうという企画展が佐渡市で行われています。 この企画展は戦後80年にあわせて佐渡市の佐渡博物館で行われていて、会場には太平洋 ...
太平洋戦争中、故郷を離れて戦地に赴いた人たちのために作られた慰問写真集を紹介する企画展が、多久市郷土資料館で開かれている。出征者の家族をはじめ、村役場職員や学校の教師、子どもたちの様子を撮影した写真から、戦時下の人々の暮らしを ...
【滋賀】太平洋戦争中に、大津市の瀬田国民学校(現在の市立瀬田小学校)の5年生の少女たちが描いた学級日誌など、地域の戦争の記録を集めた「南大萱・戦争の記憶展」が2日、大津市の瀬田北市民センターで始まった。3日午後3時まで。 市民グループ ...
アジアから遠く離れた欧州でも、戦況は連合国の勝利へと大きく傾いていた。1944(昭和19)年6月のノルマンディー上陸(「オーバーロード作戦」)以降、ドイツの敗北は既定路線となった感があった。東部戦線でも同時期に、ソ連軍が「バグラチオン作戦」と銘打った ...
【読売新聞】 84年前のきょう始まった太平洋戦争で焦土と化した日本の復興を支えたのは、戦争を体験した人たちだった。米国と戦うために武器を握った手で民生品を作り、日本再生の礎となった。 真珠湾で捕虜に <帝国陸海軍は8日未明、西太平洋 ...
2025年は戦後80年ですが、岡山県倉敷市の中学生と高校生が31日、太平洋戦争中の女学生の生活を題材にした演劇を披露しました。 公演「学園誌によせて」清心中学校・清心女子高校 岡山県倉敷市二子 (公演の様子) 「お国のために皆が力を合わせて協力し ...
太平洋戦争中に活躍した駆逐艦「雪風」の史実を背景に、戦中から現代に繋がる激動の時代を生き抜いた人々の姿を描いた映画『雪風 YUKIKAZE』(8月15日公開)。作品の中で「雪風」の艦長・寺澤一利を演じた竹野内 豊さんに話を伺いました。 PEOPLE NOW ...
戦後80年を迎え、元海軍パイロット内村健一が設立した「天下一家の会」は、1967年からネズミ講を運営し、最盛期には180万人が参加した。この商法は1970年代に社会問題化し、内村は1972年に逮捕、最終的に有罪判決を受けた。ネズミ講は1980年代に法 ...