豊臣秀吉にとって、天下人への道がはっきりと見えたのは、いつだったのか。たいていは、天正10(1582)年の6月、秀吉は明智光秀を山崎の戦いで討ち取って、信長の後釜に座った。そう語られがちですが、さほどに甘い話では、ありませんでした。
小牧・長久手の戦いにゆかりのある自治体でつくる「小牧・長久手の戦い同盟」の連携会議が3日、春日井市勝川町の太清寺であった。同寺の田口宗純住職(62)が徳川家康にまつわる逸話を語った。(長谷川和華) ... 五島列島キリシタン物語【後編】 地元 ...
天正11年(1583)、羽柴(豊臣)秀吉は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、天下人への道を確かなものとした。その際、秀吉とともに戦い、抜群の軍功を挙げたのが、いわゆる賤ヶ岳の七本槍である。
その最中、本能寺の変が起きます。その報を受けて、秀吉が毛利と講和を結ぶと、秀長は、中国大返しのさいも、最も危険な任務である殿をつとめました。 明智光秀との戦いとなった山崎の戦いでは、秀長は、おもに天王山の防衛にあたっていたとみられ ...